大館神明社例祭の歴史

歴史を受け継ぎ、未来へ繋ぐ

大館神明社例祭

大館神明社の例祭は、大町通りを中心に毎年9月10 日(宵祭り)、11 日(本祭り)の二日間にわたって執り行われる本市の代表的な秋祭りです。

例祭は、古くから続く大館神明社の御神輿(おみこし)巡行と、露店ひしめく通りを重さ1トンを超える各講自慢の山車(やま)を曳き、その勇壮さを競い合うのが特徴で、山車の上で披露される「大館囃子(ばやし)」が各講に共通した伝統芸能として継承されています。

大館神明社は、かつて小場義成が行った城下町割りの西端に位置し、参道からまっすぐ東に続く羽州街道は、祭りの中心となる大町通りから北方向に折れ、津軽方向へと続きます。

大館神明社の起源

旧記によると、もともとは小館花道上にある古神明社(ふるしんめいしゃ)が大館・小館花(こだてばな)の産土(うぶすな)神であったとされています。佐竹義宣が秋田藩主となって70 年余り後の廷宝3年(1675)に大館神明社は現在地に移され(大館戊辰戦史付沿革史)、この際に佐竹氏を先祖に持つ長倉義尚の二男上平義景家が、常陸時代から祀っていた御神像を神明社御神体として奉鎮座したとあります。この時に古神明社の祭神と合祀して始まったのが、現大館神明社の起源と考えられています。

大館神明社は、その後に何度か再建されたが、明治3年(1870)9月の大火で(御神輿とともに)類焼し、現在の社殿が完成したのは明治9年(1876)秋のことであった。再建事業録(明治38 年(1905))によれば、全郷から四千円余の献納金を得て明治8年(1875)に工事を起こし、翌年秋に完工をみたとあります。当時の米価は一石(150kg)三円五十銭ほどなので、四千円がいかに大きな額かがわかります。なお、現行の御神輿は、明治5年(1872)から3年間、全氏子が毎月五厘ずつ奉納して明治7年(1874)に建造したものです。

大館神明社(明治9年再建)

大館神明社(明治9年再建)

御神輿(明治7年建造)

御神輿(明治7年建造)

御神輿巡行区域内に残る建造物

大館神明社の御神輿は、最初の氏子町内であった外町4町から始まり、広い氏子町内の会所をくまなく巡行します。この区域内には、合祀した御神体に由来する古神明社、かつて賑わった新開地に残る料亭などがあります。また、大館駅前には昭和30 年代の映画館や近代和風の建造物が残っており、近現代大館の足跡を垣間見ることができます。

大館神明社例祭の歴史

大館神明社が現在地に建立された当時の例祭は、旧暦7月末日から3日間であったと伝えられていますが、明治3年(1870)の火災でそれ以前の記録が失われ、現在残っているのは、明治7年(1874)に御神輿が建造されて以降の記録のみです。その後の例祭は、明治42 年(1909)に新暦9月14・15 日に変わり、さらに翌年から明治天皇の御巡幸を記念して9月10・11 日の開催となり、以降現在まで続いています。

戦後の一時期、曳き手が足りず山車をトラックに 載せて巡行した時代もあった(大豊講)

戦後の一時期、曳き手が足りず山車をトラックに載せて巡行した時代もあった(大豊講)

明治期には、御神輿を先頭に背の高い鉾や飾山が続く長い行列が運行されてきましたが、電柱や道路事情の変化により、運行が困難な時代を迎えます。明治30 年(1897)の記録に「大豊講の山車は田豊講へ行く途中、坂中にて電信へ横たわり」とあり、この頃から背の高い山車の運行には支障が出ていました(以下神輿は、大館神明社のものを「御神輿」、奉納講のものを「みこし」と表記)。

戦後になると氏子区域が広がり、奉納講の山車・みこしが増えたため、御神輿の巡行が渋滞を引き起こすようになりました。また、大館神明社境内に奉納講全部を集めて神事を行うことが難しくなったため、昭和44 年(1969)からは、奉納行事の奉告祭を別に開催するようになり、これ以降大館神明社の御神輿巡行と奉納山車・みこしの運行は別々に行われるようになりました。

氏子区域の広がりと御神輿巡行

旧藩時代から大館神明社の例祭は、外町4町と呼ばれる大町、馬喰町、中町、新町が年番制で取り仕切ってきました。これは、城下町に配置された町人町のうち大町を中心とした外町4町に資産家や大きな商人がたくさんいたということの表れです。商人たちの活動が活発になるとともに町が広がり、大館神明社の氏子区域も広がっていったのです。

明治後半からは、城下町の大半と長木川以南までが氏子区域に入り、その区域を御神輿や奉納山車が練り歩くようになりますが、それでも氏子の主体は外町4町でありました。大正7年(1918)の神社経費を見ると、総額六百五十八円三十六銭のうち85%を超える五百六十円二十七銭を外町4町で負担しています。残りの15%を後に氏子として加わった11 町内が負担していることからも、外町4町の経済力が圧倒的に高かったことがわかります。

町の広がり(左:昭和22 年、右:現在) (地図:出典国土地理院)

町の広がり(左:昭和22 年、右:現在) (地図:出典国土地理院)

昭和22 年(1947)の地図を見ると、長木川以南では城下町の範囲で町が形成されていますが、長木川以北では駅前に向かう道路沿いのみで町が形成されていることが分かります。しかし、現在の長木川以南は住宅地がほとんどを占めるようになり、また長木川以北では農地が住宅地へと変化していることが確認できます。

大館神明社の氏子町内もまた住宅地の拡大とともに広がりを見せ、昭和55 年(1980)の御神輿は、栄町、御成町、中道、清水町、水門町、有浦、相染、たつみ町、南ヶ丘なども回るようになります。その後もいくつかの新興住宅街が氏子区域に加わり、御成区、北区、西区、南区、東区など(44 町内)が現在の氏子区域になっています。外町4町から始まった大館神明社の例祭は、今では市街地のほとんどを氏子区域とするほど規模が拡大しましたが、今でも氏子の中心は外町4町です。そして御神輿巡行では、外町4町が年番で担当する御旅所(お昼の休憩所)や、御神体由来の古神明社と長倉町で執り行う神事が、昔と変わらない形で続けられています。

大館神明社氏子会の構成

大館神明社氏子の区域及び山車運行区域(地図:出典国土地理院)

山車・みこしを奉納する人々

かつての行列は、氏子が担ぐ大館神明社御神輿の後を外町4町内講中の山車、資産家の飾り山車と囃子山車などが続く賑々しいものでした。大豊講、中和講、馬龍講、新連講の4講は明治の頃から今も続く奉納講でした。

その後、物資の乏しかった終戦後や度重なる火災を乗り越え、市街地の復興とともに大館神明社の例祭は続けられてきました。京都祇園山鉾のような背の高い姿を起源に持つ大館の山車は、都市化と道路事情に合わせる形で少しずつ変化してきました。現在の姿に定着したきっかけは、昭和50 年(1975)に大豊講が建造した唐破風を四面に持つ神楽殿を模した曳き山車(人力)で、これ以降同じような形態の山車が次々に建造され、現在も運行しています。昭和55年(1980)に運行された山車は14 台、みこしは22 台と記録されています(平成28 年(2016)は山車14 台、みこし8台)。この頃から、大館神明社例祭の神髄を損なうことなく、増えた奉納講が一体となった祭りを運営するために、氏子組織、奉納講が一体となった「実行委員会」を組織し、大館神明社境内に事務所を整え、一年を通じて取り組んでいます。

北秋倶楽部主人、石川重吉が奉納した余興山車-(大正時代)

北秋倶楽部主人、石川重吉が奉納した余興山車-(大正時代)

馬龍講に集まった若衆(昭和2年)

馬龍講に集まった若衆(昭和2年)