秋田県大館市の文化遺産

歴史を紐解く

大館アメッコ市

大館アメッコ市

お正月が過ぎると、市内のあちらこちらで「枝アメ」が飾られ、冬の大館に華やかな風景が出現します。ミズキの枝に色とりどりの飴や短冊を飾る「枝アメ」は、雪の白や青空に映えて街路樹が花を咲かせたかのようです。

現在の大館アメッコ市は、毎年2月の第2土曜日とその翌日に、大町通りで開催されています。車両を通行止めにした大町通りには、特設の鳥居と拝殿が設置され、約100 店のアメ屋などの露店が軒を連ねています。アメッコ市の飴を食べると風邪をひかないと言われており、縁起の良い飴を買い求めるお客様が県内外からたくさん訪れ、大町通りを埋め尽くします。

大館アメッコ市の起源と「市」

大館アメッコ市は、400 年以上前の天正年間(1573~1591)、大館城下に開かれた「市」で始まったと言い伝えられています。この頃は、いくつかの勢力が拮抗し、大館城の支配をめぐって激しく争っていた時代です。

のちに大館城下は佐竹西家の支配となり、城代が管理する「市」が各地に開かれるようになり、開催日や売買商品の制限なども決められた。城下町が形成されると、大町を含む外町4町が商業地域として賑わうようになります。

大館市史によると、明治初期から明治30 年代まで大館地方で開かれる市は、7の日が大館、6の日が十二所、2の日が川口、5と10 の日が扇田、4の日が早口と決められていた。このうち大館町の市は、大町、馬喰町、中町、新町の四つの市が、月の7・17・27 の日に順繰りに開かれ、大町の市は、小野家(当時の主人は小野儀助(ぎすけ))の前通りで開かれていました。

こうした市で売られていた初めの頃の飴は、農家が米などで作ったものと考えられている。昔のアメの製法(むつ市史・食の事典参照)を紐解くと、もち米や大麦もやしを用い、乾燥や発酵を経て水飴状にする。お菓子というよりも、甘味料や薬のような使い方をしたようでした。明治期の小野儀助日記には「あめ町」が登場し、これが最も古いアメッコ市の記録です。

昭和の初め頃になると、お菓子屋さんが商売として飴を作るようになり、寺町の小路で「市」として開かれるようになり、これが現在の大館アメッコ市につながるものと考えられています。

昭和14 年(1939)発行の浅野泰助(たいすけ)著「秋田奇聞抄」には、「明治に入ると中央から製菓技術を教える渡り職人がみられ、飴の加工技術が一段と進歩しました。着色、動物や果物の型づくりなどが多くなり、女、子供達の購買意欲を駆り立てた」とあり、その頃は周辺の農家や季節営業、兼業、副業の飴売り業者が主流を占めていました。

これらのことから、少なくとも明治期に開かれていた「市」にはアメが売られていて、昭和の初め頃から現在のような「アメッコ市」が開かれるようになったと考えられています。言い伝えには、(アメッコ市の)「飴を食べないと蛆(うじ)になる」とあるが、この意味は定かではありません。今は開かれなくなってしまったが、昔は岩手県の浄法寺(じょうぼうじ)や住田(すみた)町などでも「飴っこ市」が開かれており、その地方にも「この日飴を食べないと蛆になる」という言い伝えがあります。

アメッコ市のシンボル「枝アメ」

大館菓業百年祭記念誌(昭和60 年(1985))によると、枝アメは、餅を細い木の枝に付けて神棚などに供える「餅花」をヒントにして作られたもので、昭和20 年代半ばに登場したといわれています。

地元紙「北鹿新聞」には、昭和20 年代からアメッコ市の記事や広告が掲載されており、昭和26 年(1951)頃から「飴の木」「芝の枝に赤い飴」「南天の赤い実」という表現が登場します。これが現在の枝アメにつながっているものと考えられる。枝アメは、この頃からアメッコ市の人気商品で、大人も子供も枝に付いたアメを手にぶら下げて歩いていたようです。当時は木の種類にも決まりはなく、飾りつけもシンプルであったが、昭和50 年代に入るとミズキの枝を使った枝アメが定着し、市内のあちこちに飾りつけられた枝アメはアメッコ市のシンボルに定着したのです。

アメッコ市に関連する建造物

現在アメッコ市の主会場となっている大町通りは、羽州街道の一部であり、大館城下の外町4町に位置します。羽州街道の裏通りには蓮荘寺・浄応寺・玉林寺が並び寺道(てらみち)通りと呼ばれていました。この場所には古くから小さな市が立ち並び、この中でアメッコ市が続けられてきたと考えられます。三つの寺は現在も同じ場所にあり、この通りは現在寺町(てらまち)通りと呼ばれています。

アメッコ市の変遷

地元紙の記録によると、アメッコ市の開催場所は、昭和24 年(1949)からは大町・中町付近、昭和34 年(1959)からは宗福寺に続く末広町の通り、昭和37 年(1962)から昭和51 年(1976)頃までは蓮荘寺・浄応寺・玉林寺が並ぶ寺道通り、昭和52 年(1977)からは再び大町通りで開催されてきた。特にお寺の界隈には、古い時代から小さな市が開かれてきたので、後の時代になってもアメッコ市の場所として定着するようになったのです。

戦後の物資が乏しい時代に、アメは高い買い物でありましたが、地元紙の記事は人々がこぞってアメッコ市のアメを買い求める様子を伝えています。だんだんと干支や果物、動物を模ったアメ、芸術品のようなアメなども登場しましたが、やがていつでもどこでもアメが手に入るようになると、アメッコ市は低迷の時代を迎えます。

大きな変化を迎えたのは昭和57 年(1982)に大町通りを歩行者天国にして開催するようになったことで、全国各地から観光客が訪れる大規模なイベントになりました。いつしか「飴を食べないと蛆になる」という言い伝えは、「飴を食べると風邪をひかない」に変わり、今でも大館アメッコ市には、たくさんの人々が訪れるようになりました。

アメッコ市の開催場所の変遷 (地図:出典国土地理院)

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