きりたんぽ
きりたんぽ
「たんぽ」の起源は、秋田県北部が広く「ひない」と呼ばれていた時代にさかのぼり、狩りで山に入ったマタギが、ご飯をこねて木の串に巻き付けて、山神様へのお供え物にしたのが始まりとされています。また、自給自足の祖先たちが、秋の農作業を終えて米、みそ、鶏などを持って炭焼きのために山籠もりをした際に、その日残ったご飯をこねて丸め、串に巻いて焼き干して食べたという夜長の廃物利用食が始まりという説もあります。
いずれにしてもこの地域には、農民がその年の農作業を終え、1年中の慰安を兼ねた収穫感謝祭や一家団らんの食事に貧富の区別なく、必ず手づくりの鍋料理「きりたんぽ」を会食する風習が続いてきたことだけは間違いがございません。
古文書の記録
「たんぽ」が古文書に登場するのは、菅江真澄遊覧記(寛政6年(1794))で、今からおよそ220年前、「きりたんぽ」は阿仁前田の俳人・庄司唫風「郡方勤中日記」(慶応元年(1865))というから、少なくとも県北地方では、150 年ほど前から食されているということになります。そのほかの文献から見ても、きりたんぽがハレの日や一般家庭料理として提供されるようになったのは、これらの文献から、幕末から明治にかけてと考えられます。
たんぽ会の文化
大館では、秋の農作業を終えて新米が出ると「たんぽ会でもしようか」という言葉があいさつ代わりになります。きりたんぽで一杯飲もうというのが「たんぽ会」ですが、この季節になると肝心のたんぽが出ない「たんぽ会」さえ開かれるほどで、人が寄り集まった会に出るハレの食物のイメージがあります。
また、結婚式の後やお祭りで親類縁者が集まるとき、大切なお客様や懐かしい友達、里帰りの子供たちを迎えるのも「きりたんぽ」です。大館人が最上のおもてなしを込めて提供する料理であり、久しぶりに帰郷した方には「きりたんぽ」を食べて初めて大館に帰ってきたことを実感できる故郷そのものと言える特別なご馳走なのです。
本場大館きりたんぽの誇り
大館人の「きりたんぽ」に対する思い入れは大変強い。今では、きりたんぽは全国各地で食べることができますが、まがい物が登場し「おいしくない」などと評されると論争が起きるほどです。まずいきりたんぽは許せないと、今では「本場大館きりたんぽの定義」があり、天然記念物「比内鶏」の血統である「比内地鶏」や地場産の食材を使う厳密なレシピが定められているほどです。
こんな熱意で始まった「本場大館きりたんぽまつり」は平成28 年(2016)に43 回目を迎え、今では大館樹海ドームを会場に開かれる一大イベントになっています。全国においしい大館の味を発信し、1度食べた人はまた大館に戻ってくるような、最上のおもてなしを目指して毎年開催しています。
※厳密な定義はあるものの、市内の各家庭で作られているものは、すべて「本場おおだてきりたんぽ」であるとされています。これもまた故郷の味の所以です。
(参考文献)
- 寛政6年(1794) 菅江真澄遊覧記「奥のてぶり」:木材をくりくぼめたものにご飯を入れ、細い杵で突いて餅にした「たんぱやき」
- 天保5年(1834) 「天保飢饉見聞記」長谷川伊右衛門:「反甫(たんぽ)」飯をつぶし、長い木の串に蒲の穂のように握りつけ、炉火に焼いて味噌をつけ、焼き乾かして食べる。松橋栄信:校注
- 元治元年(1864) 二井田一関文書「日監」:「扇田の病人模様宜敷候よしたんぽと鶏壱羽牛蒡添テ遺候」
- 慶応元年(1865)12 月30 日 阿仁前田の俳人・庄司唫風「郡方勤中日記」:宅にてきりたんぽ振舞相はしめ候
- 明治20 年(1887)12 月1日 小野儀助日記:大町の呉服店「まるこ」の大旦那が「夜、鶏皿やき・たんぽに而大食せり」
- ドイツの建築家ブルーノタウトが昭和11 年(1936)2月に秋田市を訪れた際、川反で「とりわけ有名なきりたんぽをごちそうになって」(「日本美の再発見」)いる。その頃には、広く秋田県の料理となっていました。
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